”十代の神話”を描く相米慎二とデヴィッド・ロバート・ミッチェル
こんにちは、YUKIです!
最近はまっている映画監督の相米慎二について書きたいと思います。
まだ数本しか見れていませんが最近鑑賞した『台風クラブ』に衝撃を受けました。日常から始まるこの作品は、中学生の少年少女の胸中に秘められた衝動をかき乱し、最終的に日常から少し飛躍したとんでも無いところに着地するという青春映画の傑作です。この映画を鑑賞しながら、アメリカ人の映画監督デビッド・ロバート・ミッチェルの作品のことを連想しました。ここでは『台風クラブ』とデビッド・ロバート・ミッチェル作品を比較したいと思います。
・デビッド・ロバート・ミッチェル
デヴィッド・ロバート・ミッチェル(David Robert Mitchell、1974年10月19日 - )は、アメリカ合衆国の映画監督、脚本家である。2014年、雑誌『Complex』によって「商業的な成功を収める可能性がある10人の有望な映画監督」の1人に選ばれた[1]
・『台風クラブ』
台風の接近とともに、突然狂気に襲われた中学三年生たちの四日間を描く。ディレクターズ・カンパニーのシナリオ募集コンクールで準入選をした加藤祐司の脚本を「ラブホテル」の相米慎二が監督。撮影は「みゆき」の伊藤昭裕が担当
・『アメリカン・スリープ・オーバー』
長編第2作「イット・フォローズ」で注目されたデビッド・ロバート・ミッチェル監督が、2010年に発表した長編監督デビュー作。アメリカ、デトロイトの郊外を舞台に、夏休み最後の一週間の「Sleep Over(お泊まり会)」を通して、一目ぼれした女性を探す少年や、双子の姉妹の間で揺れる大学生、「楽しいなにか」を求める少女など、それぞれの青春を追いかける思春期の少年少女たちが、精神的に成熟していく過程をみずみずしく描いた。カンヌ国際映画祭の批評家週間などで上映された
・『イット・フォローズ』
各国の映画祭で高い評価を獲得し、クエンティン・タランティーノも絶賛の声を寄せたホラー。ある男との性行為を機に、他者には見えない異形を目にするようになってしまった女性に待ち受ける運命を見つめる。メガホンを取るのは、新鋭デヴィッド・ロバート・ミッチェル。『ザ・ゲスト』などのマイカ・モンロー、テレビドラマ「リベンジ」シリーズなどのダニエル・ゾヴァットらが出演。独創的で異様な怪現象の設定に加え、次々とヒロインの前に現れる異形の姿も鮮烈
ミッチェル監督作"アメリカン・スリープ・オーバー"において、大人になる手前の少年少女たちがとある現実に直面します。それは以下のようなものです。
人は大人になることで死を認識し、死ぬことが人生のゴールであるということに気づき苦しめられる
そして、それにまだ直面しない状態のことを十代の神話として定義しています。
次作”イット・フォローズ”はホラー映画でありながら"アメリカン・スリープ・オーバー"の精神的続編であると言えます。この作品の主人公は言ってみれば十代の神話を経験し終えてしまった者たちの物語だからです。彼らはゆっくり近づき追いつかれると死んでしまう謎の存在に苦しめられます。それはまさに人は大人になることで死を認識し、死ぬことが人生のゴールであるということに気づき苦しめらるという前作のテーマをそのままホラー映画の設定に置き換えたように見えます。この作品では死を遠ざける方法について提示されます。それはラストショットの主人公たちがそうしたように、恋人と手を取り合って人生を歩んでいくということです。ミッチェル監督は青春を持続させることを他者を愛することだと解釈しているのだと思います。このテーマはイングマール・ベルイマン監督作『第七の封印』でも語られるものなので、これについてもいつか記事を書きたいと思います。
話を『台風クラブ』に戻します。本作を言い換えるならば、"アメリカン・スリープ・オーバー"の子供達が"イット・フォローズ"されるか、"十代の神話"を継続するかに二分される話と言えることができると思います。
本作の主人公である中学生の少年少女は序盤から、将来への漠然とした不安、恋愛への欲求不満、死への恐怖にさいなまれていることが描かれます。そんな彼らが台風の中学校に残り、一夜を共に過ごすことで一人の少年あきらがこんなことを言います。
「死は生に先行する。死は生きることの前提だ。厳粛に生きるための厳粛な死が与えられていない。だから俺が死んでみせてやる。みんなが生きるために。これが死だ! 」
そういって彼は教室から飛び降りてしまいます。彼が死んだのかどうかは定かではありません。彼はなぜこんなことをしたのでしょう。それは、彼の行為を目撃した同級生たちが元々持っていた漠然とした不安を確固とした死によって現実のものとして受け止めさせようとしたのではないでしょうか。おそらく、同級生たちが実体の無いものに心をかき乱されているのを見るのが耐えられなかったのだと解釈しました。
一方で学校に残らず、この死に直面しない者、つまり十代の神話を継続する者もいるという点でもデビッド・ロバート・ミッチェル作品に通じるような気がします。
まだ全てを把握しきれているわけではないのでこれからも見返したいと思います。